はんだ牛蒡生産者 反田孝之さんブログ - 2017年3月の記事

3/31 私の朝

「朝が早いんでしょう」と言われることが多い。確かに以前は早く、日の出とともに家を出ることが続くこともあった。しかし近年ではそうではない。経営が安定してきたということはもちろんあるが、一番大きな理由があって、それはまだ幼い子供たちがいるということだ。

私の朝を紹介すると、目覚ましアラームはかけず、自然に起きた時間に起きる。ほぼ3~6時の間だ。そしてパソコンを開いて天気予報とメールに目を通す。そして新聞。新聞は、気持ちを込めては読まず、頭の片隅で、今日の段取りを浮かべながら読んでいる。これはずいぶん以前からのことで、子供のころ、朝起きると必ず親父が黙って新聞を見ている姿があったが、その時にその日の仕事(土木会社経営)の段取りを考えているのだと何かの折に聞いたことがあって、私もいつの間にやら真似をするようになったのではないかと思われる。そういうところが似るものかと思う。

新聞を読み終わると、寝転がって段取りなどを真剣に考える。そのうち女房が、次に子供たちが起きてくる。

女房が朝の家事をするのだが、子供たちは大人しくはしてくれない。その間の相手をするのが私の日課だ。特に下の子はまだ2歳になったばかり。なかなかの難敵で、相手をしているうちに頭の中でまとまった仕事の段取りが分からなくなってしまうほどである。

一番厄介なのは、彼があまりにも可愛いいせいで、一緒に遊んでいるうちに戦意喪失することだ。朝は気持ちを高めて家を出たいが、とてもそれを許してくれない。一時は新手の拷問だと面食らっていたが、最近はすっかり慣れてしまった。

問題はこの「慣れた」ということ。ちょっと良くない。拷問を克服した、ということではなく、屈してしまった、という気がしている。つまり職人としてのパフォーマンスを下げているのである。経営的には今はこれでもいいかもしれないが、今後もずっとそうだとは考えにくい。ここは確実に修正していかなくてはならない。

近々イベントで、私の「職人観」を語る場が設けられることになったが、いやはや、語るに足らずだ。こういう機会に今一度自らを見つめ直したい。

3/29 新たに借りた田んぼの管理(2)

水抜き作業の理屈は簡単である。暗渠排水溝が設置されている筋を金テコで突いて、砕石層をこねくる。すると水が吸い込まれるように落ちていく。

というのは運や状態がいい時で、なかなか簡単にはいかない。まったく吸い込まないところもあるし、吸い込んでもしばらくすると詰まったりする。そして再びこねれば復旧するところもあるし、しないところもある。

暗渠排水がどこかで詰まっているのではないかと思われるような場所もある。こうなると大変厄介な別の問題だ。。

上手く抜けるところはこんな感じに。 昨日の写真の場所だが、昨秋からずっと溜まりっぱなしだった水が、降雨の2日後にはこのように干上がるようにり、晴れが続くと亀裂も入りだした。こういう亀裂が入るところは、土が自分で息ができるようになる自己回復力がある。私ら農業者の役割はそういう状態にまで戻してやることだといえる。

なるべく固めれるだけ固めておいて、トラクターを入れたい。そして代かきで均平を取れるだけ取って、来年は大きな水たまりがまずはできないようにすることが目標となる。そして暗渠排水の筋の乾いたところを金テコでこじると、その穴からはメタンガスの臭いがするが、来年にはこの臭いがしないようにするのも同時に目指している。

いいお米を作るのはそれからだ。あまりに気が長いようなネタだが、もうすっかり慣れてしまった。

3/28 新たに借りた田んぼの管理

作土の薄すぎるという理由で、5年間続けた自然栽培圃場に見切りをつけ、新たに借り受けた2.3haの田んぼは、期待通りに土が深い。10年間耕作し、2013年いっぱいで撤退した下の原地区もしっかり深みのある田んぼだったが、またこういう田んぼで稲が作れるということが楽しみでならない。

しかし一方で、困ったこともある。2010年の大区画化圃場整備以降から昨年までの耕作者が、気合の入った管理をされていないため、あちこちにほころびがある。

まず田んぼの不陸(凹凸)が激しい。水を張ってみないと正確には分からないが、昨年まで横目で見ていた限りでは10cm以上はありそうだ。圃場整備後しばらくは不陸が発生するものだが、当初からの不陸もほとんど直すことなくおられたようなので、今はかなりひどいことになっている。

そして当然低いところに水が溜まることになる。今朝撮った写真だが、こんな感じ。 田んぼには2011年に暗渠排水溝が敷設されているが、定期的に水を抜いて乾かす管理をされていないので、まったく効いていない状態だ。私が借り受けることが決まった昨秋以来ずっと、この写真のように水が溜まっているのである。

毎年こんな感じなので、こういう場所は掘ってみると土が腐っている。すっかり灰色になって臭く、土のグライ化という。そしてあちこち掘った限りでは、水が恒常的に溜まるところはもちろん、比較的乾いてるところでもかなりの部分でグライ化している。土が腐っているところではいい作物は育たないので、まずはこの土を何とかしなければならないが、1年やそこらで変えられるものではない。しばらくはここに向き合っていかねばならない。

とにもかくにも、まずは水を抜いて田面を固めないといい管理ができないということで、先月くらいから折を見ては水抜き作業を続けている。

続く。

3/27 「川越まちづくり協議会」の活動に期待したい

田畑に向き合い、家族に向き合うだけで忙しい人生であるが、このド過疎の田舎に住んでいる限り、それで済ませているわけにはいかない。地域から人がいなくなって、地域のインフラの維持ができなくなってしまっては、現実的には、この故郷に人は住むことができなくなるだろう。

人が住めなくなったところで、そこに美しい山河が残り、そこを通過する人や、時々経済活動に通う人たちが満足できる風景が広がっているのだとしたら、それでも構やしない。​しかしそうはなり得ない。現代人が立ち入って関わりを持てる程度の自然を維持するには、それ相応の人為の投下が必要である。そのためには、最低限の人は住んでいるという状態を維持しなければならないはずである。

一昨日は寝不足で終日体がだるかった。夜中にしょんべんに起きて、また布団にもぐったのだが、当地、つまり江津市桜江町内のいわゆる「川越」という地域の先行きのことを考えているだけで、目が冴えて眠れなくなってしまった。

この10年で、1000万円という自由に使えるお金が降ってくるとのことなのだが、果たしてこれが、きちんと「将来の地域運営のシステムづくり」の目的に使われるのであればいいが、もしかすると今を賑やかすだけの対症療法的な目的に使われてしまうのではないかという不安である。実際にそういう計画や報告を聞いてきたし、聞いた時は私もまだピンとこなかったので聞き流してきてしまったが、考えを整理し深めるにしたがって、大きく道を間違える可能性があるんじゃないかと思えるようになっているのである。「あの時の1000万を、なんであんなふうに使ったのかなあ・・」と悔やみながら過去を振り返るときが、いつかあってはいけない。私が生きているだろう20年後の回想ならまだいい。子供らが中心となる40年50年後のこの手の後悔は、もはやどうすることのできるレベルではないはずである。

もちろん地域の存続が、このたびの1000万にすべてかかっている、とは言うつもりはない。しかしこれを軽んじている余裕は、我が地域にはないと断言する。

関係者の皆さんが骨を折って頑張っておられることはよく知っている。だがここは何度でも見直して、将来に後悔を残さない方法を模索していくべきだ。私にも、組織(川越まちづくり協議会)がどうあるべきか、などの私見もあるし、現実に私が役に立てそうなことというのも、理屈の上ではなにかとありそうだ。しかし日々の営みがある以上、現実には限られてくる。限られてくるが、無理をしてでも頑張らんとならんなと思っているところ。

生業の農業に絡めて言っても、この川越地区あっての、このゴボウだ。このゴボウがこの世から消滅することは、あまりにも社会的損失であると、私は今、胸を張って言う。地域の消滅とは、もっと高いレベルでの悲哀だということは分かっていて、それはもちろんのこと、唯一の生産者である私の立場としてはそういうゴボウを守るという意味でも、ぜひやらなければならないことである。

3/25 この時期に春まきゴボウの作付けが終了

昨日、今期の春まきゴボウのすべての播種を終了した。例年なら、3月中に一発目を蒔きたいというつもりでやっているが、今年は条長およそ6500mをすべてを3月中に蒔き終えてしまった。さてどうなるか。

3回に分けて蒔いたが、2月末に蒔いた一発目は、案の定なかなか発芽せず、昨日ようやく発芽を確認したところ。

播種してすでに1ヶ月近い。3月中旬蒔きでも2週間はかかるので覚悟はしていたが、倍近くになるとまでは思っていなかった。

今年のもう1つの特徴は、多めの開渠を復活させたこと。最近では水が溜まりやすい所に、ほぼ「排水」目的の溝を掘るにとどまっていたが、今年はトレンチャーがけをした状態でひと冬越したおかげで、土が締まりやすい(=表面水も土中水も滞留しやすい)ところが明らかに目に付き、その付近にも溝を掘ったのだ。溝を掘るというよりも起伏を作るという意味合いが強く、このことで水の移動を促し、土中の水が腐りにくいようにするというニュアンス。今時認知されつつある「大地の呼吸」ということと似ているかもしれない。

これはゴボウ畑の枕地(機械の旋廻などのため空けている畑の両端のこと。大型機械を使うので5m空けている。)。右手にゴボウが蒔いてある。左の溝は出口のある排水溝。右の溝が起伏目的の溝で出口はない。間の3本の筋は、隣の畑でサブソイラをかけたついでに固まった枕地をほぐしたもの。

以前は右のような溝を勘であちこちに掘っていたが、溝堀機の磨耗もバカにならないし、後で起伏を均すのも簡単ではないし、そもそも暇がないし、効果も不明、ということで近年は排水目的の左のような溝のみにしていた。いまさら効果があるかどうかは定かでないが、こういう成り行きを大事にして、少しでも赤字続きの春まき型のヒントにしたい。

3/24 保育園の立地

今日は次男がお世話になっている保育園へ菜園アドバイスへ。大豆を育てるための畑(花壇)を作りたいとのこと。

予定地を見て、まあ予想通り。保育園自体がガチガチに締められたマサ土の盛り土の上に立っているわけだから、畑もガチガチ。でもいくらかは鍬で掘り返してあって、市販の腐葉土が用意されていた。それを混ぜれば、大豆だから何とかなるかなという気がして、ついでだからと一緒に汗をかき、完成させてきた。

終わってコーヒーを呼ばれながら、保育園の今後の「園地化計画」の一端を伺う。目指すは木が植わり起伏のある広場。それができれば子供たちにとってとても魅力的な園になることは間違いない。

問題はこの土地。ガチガチに転圧されたマサ土の盛り土だ。たやすく木を受け入れてくれるものでないことは明らかである。

そんなことを私がつぶやくと、「私らがもうおらんような先になるかも知れませんが・・」と主任さん。そんな視点で考えておられるのかと、ちょっぴりジンと。

私にできることは何だろうか。

3/23 ・・・

トンネルの換気の時期になった。晴れる日は、開け閉め30分ずつ、計1時間が取られる。あと1月の辛抱。

新たに借りた田んぼ2.3haの水抜き作業も、先月くらいから雨上がりを狙って続けている。昨日今日と金テコを突き刺しまくって、どうにも抜けなかった箇所が、今日ようやくぶち破れて抜けるようになった。グライ層も発達しているし、前の耕作者がほとんど意識して管理していなかったツケと向き合っているところ。まあ、田んぼってこういうもの。このことについては改めて触れてみたい。

明日は、今期最後のゴボウ播種予定。今日はこれから畝立てを。

今年度もあとわずかだが、何だかんだと年度末行事が目白押し。頭を切り替えて、切り抜けたい。

3/22 蔵と納屋を解いた

我が家は、ちょうど5年前に築150年といわれる古民家を買い取ったものだ。小川にかかる小さな橋を渡ると庭があって、左に蔵、右に大きな納屋が。正面の母屋の左奥には畑、その中に樹齢何年かわからないような梅の巨木・・。

在りし日の入り口からの風景。 実はこのたび、蔵と納屋を解いた。屋根さえしっかりしていれば物置として立派につかえたのだが、私らが引っ越してほどなくして、瓦がずってきて雨漏りがひどくなっていた。この家を購入しようかどうか迷っていた時に、関係者で蔵や納屋を眺めながら、解くか解かないかなどと談義したのが彼らに伝わったせいじゃなかろうかと考えているが、まさかこれら大きな建物の瓦を葺き替えることなど経済的にできるはずもなく、瓦がいつ子どもの頭の上に落ちてくるかもしれないし、きっと彼らが自ら引き際を教えてくれたと思うことにして、このたび思い切って解くことにしたのである。

そして昨日、仮橋が撤去され完全に終了。すっかり寂しくなった。 ここ数日は、納屋跡で息子とキャッチボールをよくしているが、そんなときに昔を偲んでふらりと立ち寄られる人もいる。小学生の時に渡し舟で渡ってきて同級生のお見舞いに来た、肺を患って納屋の2階に隔離されていた友人と、こうやって見上げながら話をした、という80歳のおじいさんやら、子どもの頃はお菓子ほしさにここに盆踊りに来たもんだ、という60を過ぎた隣集落の方。他にも近所の方々がすっかり跡形がなくなった空間を前にして当時を偲ばれる。そうか、私ら夫婦のの「解く」という決断はそういうことだったのか、と改めて思い知っているところである。

工事によって、積年の庭のたたずまいはすっかり崩れてしまった。さあ、そんな暇があるかどうかが怪しいが、ここを少しずつ作り上げていかねばならない。まずは自然に任せ、草が程よく茂り、この空間をまとめてくれるのを待ちたい。そして山に囲まれ、裏山を背負った立地であるから、できれば木は実生が生えるに任せたいが、そうも言っておられないとすると、裏山から適当な幼木を移植するのがいいだろう。

ついでに裏山にイチョウの大木があるのだが、これが倒れれば我が家を直撃する。巻き枯らしをしてやろうと、なた目を入れておいた。

古き良き物を守る視点と、新らしい物を生み出す視点を合わせ持ちたい。今やこれは農山村の特権であって、しかしながらその農山村にあっても「守る」技術の伝承は消え入りそうな現状である。自然栽培にも通じるところがあって、せめて私は、この現状に他の分野では貢献できそうにないから、この本職の部分で意地を出してみたいと願うものである。

3/21 尻もちをつくようになった

最近、体の動きでショックを受けたことが立て続けにあった。1週間くらいのうちに、尻もちを3度ついたのである。

1度目は、次男を抱っこして起伏のある草むらを何気に歩いている時だった。足を滑らせてそのままドスン。

2度目は、作業場で二三歩後ずさりしたときに、コンクリートに這っているツル性の草に足を引っ掛けそのままドスン。

3度目は田んぼの畦で足を滑らせ田んぼの中にドスン。

だから何だ、ではない。私はいつの頃からか、ほぼ尻もちをつかない人間なのだ。どんな時でもとっさに体制を整えて無事に生還するか、地に落ちたときでも自然と手をついて尻はつかない。それは重い荷物を背負って山を歩くときだって例外ではない。大学時代にどこの山だったか、雨上がりでズルズルの下山道で、ひとしきりお尻を泥だらけにした同行者たちが「なんで反田はケツをつかないんだ」と不思議がったりしたこともあった。

もちろん尻もちをつくということが、そう悪いことでないことは知っている。尻もちは受け身としては優秀なので、無意識のうちに手が出て手をついて、手首を捻る怪我をするくらいなら、尻もちをついてズボンを汚して済ませた方がいいに決まっている。

しかしショックを受けているのは、今までのような無意識の動きができなくなりつつあるということ。皆無に近かったのが、短期間に3度だから、少なくとも体に変化が起きていることに間違いはないだろう。

ま、身体能力の減退を受けて、調和を取って安全性を補っている、と考えれば、何てことはないが。

それにしても尻もちをついて思うのは、予期せず無防備に体の前をさらけ出したその惨めさである。僻みも妬みも羞恥もない生き方の尊さなどを日頃から念じているくせに、「これだけはダメだ、恥ずかしい」と我慢がならなくていることが、何事もなかったかのように間髪入れずに立ち上がろうとする自分の行為を見て分かる。まだまだだね。今度尻もちをついた時は、しばらく空を見上げてその時間を味わってみよう、などと考えているところである。

3/19 息子も連れて行った

もう半月くらい前のことになるが、2月に女房と眺めたトップページの動画の1枚目の景色を見せたくて、同じ場所へ息子を連れて登った。以前も書いたが、息子にとってはこれが4度目のトライ(1度目はこちら)。3回すべての断念が「暑い」という理由であったため、今回は涼しい時を選んだわけである。

「お母さんと登ったよ」と言うと、「ずるいずるい」と恨めしがる。誘いは二つ返事でOK。こういうところが山好きの私としては大変満足である。もしも山に見向きもしない息子だったとしたら、私は子どもにいったい何がしてやれるだろうかと考えただけで、私のようなつまらぬ人間にとってはとてもありがたいと言うほかないだろう。

目指すは我が家の窓から見える頂。バイオマス発電の名目ですっかり切り開かれた山肌があまりにも痛々しいが、ただこれを山の悲鳴だと見なしていてはつまらない。木々が覆っていた頃にはまず誰も入ることのなかった場所に積極的に関わることで、山がいくらかは喜んでいると見なそうとすることは、傲慢だ、と断罪されても山好きにとっては致し方ないことじゃないか。 ​出発前の息子。いつも始めは意気揚々。いつもは写真の正面の尾根に取り付いてきたが、女房と行った折りに下山でたどった、右上の尾根をたどることにした。ここはちょっと手を加えると立派な小道といってもいいくらいのルートになる。

期待通りにずんずん進む。途中でやっぱり「暑い」と言い出し、へ張り気味に。Tシャツ持って来ようかどうか迷ったんだが。ガキのくせに普段は人に見せるのを嫌がる息子だが、今日は誰もいないということで裸に。手持ちの温度計では気温15度。暑いかね~。 ​

「てっ辺でチョコ食べる。」普段は買ってもらえないチョコを楽しみに頑張って歩いているらしい。出発して1時間10分、ようやく息子念願の頂に。 この景色を見ながら大休止。1ヶ月前に女房と見た景色を、ほどなく息子と見ることができて、何ともいえない幸福感。持ってきたビールをあけて乾杯だが、これが日本酒か梅酒であったなら私はさらに満たされたことだろう。息子に「どうだ?てっ辺まで来て。」と聞くと、「チョコが美味しい」だそう(笑)。照れ屋だ、よく分かっている。口で言わなくたって、この眺めを前にしてただ感じてくれていればそれでいい。

13度。さすがに寒くなってきたので下山の途に。「再訪」したこれらの景色を三度見られるのはいつのことかと考えた。次男が登れるようになる4年後くらいか。しかしその頃には光環境が変わったせいで棘(いばら)の草が増えて、子どもたちが歩くのを嫌がる道に変わってしまうだろう。まあいい、大変だが私があらかじめ下刈りをしておいて、そして家族で登ればいいか。と思ったところで、ああそうだった、まだ無理だった、と微妙なことを書いてみる。

3/18 ・・・

トンネルの換気の細工の続きを終らせ、田んぼに肥料を振る段取りを粛々と。

今年は元肥を、施肥区の田んぼのうち1.1haほど振ることに。自然栽培もきっちりやるが、肥料もきっちり振るよ、私は。

7年前に作った自家製ボカシ肥料の大半がこれで無くなってくれる。それが嬉しいのよ。

3/17 そろそろトンネルの換気の時期

昼前からトンネルの換気の細工を始めた。あさってがもしかすると高温で葉が焼ける可能性があると踏んでの対応。かつては細工が済まぬ端からどんどん焼けていって、倒れそうなくらいにヒイヒイ言いながらやったこともあったので、近年はちゃんと先回りして余裕をもってやるようにしている。

細工自体は大したことではなくて、換気はトンネルの小口しかやらないので、ただ小口のビニールの開閉だけ。それを換気はほぼ毎日のことなので10秒でも作業時間を短縮したいということで、ビニールを支柱に巻き付けるというちょっとした細工をしているに過ぎない。

だから作業自体は極めて単調で、今6箇所終わったところだが、すでに完全に飽きモード。あと42箇所残っているよ、あ~めんどくせ~(笑)。こうなると明らかに高温の時にやったほうがテキパキ動いて効率的かもね。

お、外はカンカンに陽が照ってるぞ。ちょっと暑がってるかね。それなら少しやる気が出るもんだけどね。

3/16 ゴボウの連作は隔年で

畑の同じ場所で、続けて同じものを栽培することを「連作」という。ゴボウは近代農学においてはこの連作を嫌う代表的な野菜とされていて、本を開くと3年空けろとか5年空けろとか勝手なことが書いてあって、しかしそれは肥料を与えることに代表されるような「不自然な行為」によるもので、自然な栽培をすれば連作はできるんだよ、というのが自然栽培の大きな言い分の1つである。

多くの野菜について連作は、もはや全国で数多く実践されていて、このことは疑いようのない事実なのだが、ゴボウについては生産地が限られているためまだ事例が少ないらしい。「それなら私がやってやろうじゃないか」という気持ちでやっているわけだ。

そして今、近い畑では「隔年」でゴボウ栽培をやっている。つまり1年おきの栽培だ。それで若干細くなりつつあるが、それはこれまでが太かったということであって、今のところ経営ベースには乗る太さではある。これを「連作」、つまり毎年続けて栽培することを目標にしていた。しかし先日ふと思った。ゴボウの連作とは、「隔年」じゃないかと。だって隔年で実を結ぶじゃないか。

ゴボウを放っておいて観察すると、秋にこぼれた種がすぐに発芽し、翌々年の夏に結実、2年後の秋に再び芽を出す。ゴボウの連作がしにくいのはゴボウ自体が毒素を出すためだと、木嶋利男氏の本に書いてあったのがずっと気になっていたが、なんのために毒素を出すのか、こうなるとこの謎も解けたように思える。

種採りのために2年越しでゴボウを育てた場合、1年目で周囲に振り撒いた毒素は、2年目の過程できっと無害化されていることだろう。我々は経営のためにゴボウを1年目で撤去(収穫)してしまうのだから、翌年は土の中に残された毒素を取り除く管理を、もっとも時間とともに勝手に消えてくれるものであればそれでいいのだが、意識すればいいということにならないだろうか。

となると、間の年の管理がとても大切になる。もっともそういう気持ちでこれまでやってきたわけだが、さらに確信が強まったことだ。

3/15 ゴボウの自家採種を増やしたい

2017年産のゴボウは全量が自家採取の種で賄えそうである。今年は作付けを増やしたにも関わらずこの結果。粒数にしておよそ20万粒。これだけの量を確保できたのは2009年から自家採取に取り組んで初めてのことである。 成功の要因は、ネズミの被害が少なかったことだ。毎年、秋まき春まき合わせて20株くらい母本を植え替えるのだけれど、それから種が付くまでの10ヶ月くらいの間に、モグラの穴に棲みついたネズミにかじられて枯れてしまう。多い年は2本を残してやられてしまったし、今年もすでに6本がやられてしまった。さらに昨秋、春まきの母本植え替えを忘れてしまった(!)というおまけつきで、今年はすでに9本しかない。昨年は最終的に18本が生き残ったことを考えれば、これは単に「まぐれ」の類で、漠然と努力しているだけでは安定生産には程遠いと反省しているところである。

ネズミの被害をなくすためには、採種圃場の周囲をこまめに耕すのがよい。きれいさっぱりにしてモグラやネズミに魅力のない世界にしてしまえばいいわけで、これが昨年は上手く行ったのだ。しかし忙しい身には、これが簡単なようで難しい。

近くのあうん健康庵の小松先生からも最近聞いたのだが、ゴボウの種は伝承医学の世界ではかなり貴重な存在である。ネット上でもたくさんの情報が流れている。癌に利くとか不妊に効くとかいろいろあって、私もこれまでに種を分けて欲しいという問い合わせを何件かいただいてきた。効くか効かないかは私にはよく分からないし、「脱・効果効能」のスタンスがすっかり定着してしまった身にとっては、実はなかなか興味が向かない。

分けてあげれるほどの量がないために断ってきたが、しかしながら、こうやって真剣に悩んで真剣に求めてこられる人が現にいるのだから、どうせ自社用の安定生産を目指していることだし、いっそのことそのレベルを通り越して、こういう人たちへの供給も可能にするくらいの大量生産ができないだろうかと考え初めているところだ。

そのためには採種用ゴボウの育成場所に大前提があって、洪水に遭いにくい場所でないとならないということがある。となると今やっている「田津」では無理。来年からはちょっと遠いが「渡」に移そうと思っている。

ネズミの被害はおそらく簡単に防げる。今の場所は周囲が荒地に近いためモグラがよく入るのだ。田津でなるべく洪水の被害を受けにくいという条件からしかたなくこの場所にしていたのだ。「渡」の畑の中ほどでやれば大丈夫だろう。

問題は雨よけ対策。昨年やった限りではこれはあまりにも必需品。規模拡大となれば昨年のように廃材を利用してその都度建てるというのでは負担が大きい。いっそのこと常設ハウスを建てるかどうか。そうすれば生産量を増やした挙句、手間が一気に減る。あまりにも魅力的である。

3/13 当面の段取りを虎視眈々と

3月というのは天気もまだ安定せず、2~3日晴れたって土がそう簡単には乾かないということで、段取りに大変難儀をする時期だ。たった今やらなければならない!といったタイミング事は少ないが、やれるときにやっておかないと、4月5月に大変な目に会うのである。

今日、春まきゴボウの種まき1730m。残るはおよそ1600~1700m。これも今月中には蒔いてしまいたいが、どうなるか。

あと早々に片付けてしまいたいことがいくつかあって、緑肥の播種。大豆後の1.2ha。

それから田んぼの元肥散布および耕うん。7年前に作った自家製ボカシ肥料をスタッフに崩させたので、これを一部の田んぼに撒こうかと。

大豆予定圃場の耕うんもできれば早くやってしまいたい。今年はこれまで使っていた作業機にガタがきたせいで大豆の除草体系を変えるつもりで、そのためにはあらかじめサブソイラをかけておきたいのだが、サブソイラは土が極力乾いた時がいいので、耕うんさえしてしておけばスタンバイして適期を狙えるという目論見。耕うんは残り3圃場1.4haで中断。ちょっとまだ乾かないのよな。

そしてそろそろトンネルの換気の細工をしなければならない。今週末くらいからか。

来週は稲の育苗も始まる。今年は開始を10日くらい遅らせるつもりなので、芒取り以外は何もやっていないのだ。

そして年度末繁忙。会議などの用事が多く、なんだかんだとデスクワークも強いられる。体調を整えて、何とか上手く乗り切りたいところだ。

3/12 秋まきゴボウの様子

ここしばらく触れていないが、日々は忙しく進んでいる。この冬は随分と楽をして体が鈍ったせいか、何をしても体が悲鳴を上げてしまう。今はリハビリだと思ってやっている。

作業については、地味に進んでいるのが草取りマラソン。2回目に入って進捗率を書かなくなったが、現在63%だ。

今年は3圃場で作付けしており、草の多いと諦めている1圃場はすでに終わって、あとの2圃場は2回目の草取りが極めて楽である。いくら草が多くても片道で1時間はかからない。これが何よりも嬉しい。45分で行けるところもある。

一部で施肥をしているところでは一目瞭然で草が大きくて多いが、ゴボウもいくらか大きいので、適期にやれば草取りにかかる時間は変わらない。じゃあ自然栽培区のほうはゴボウが小さいのかといえば、やっぱり小さい。しかし一時心配していたほどではなく、案外としっかりしてきたので、最近では「まあまあ安心」している。

特に面白いのは87番圃場。これ。

ここは隔年で栽培してきて今回が6回目の栽培で、かつ3回目から一切の施肥をやめたという、あまりにも現代農学を無視したゴボウ栽培である。前回栽培から出てきた傾向があって、それは今回も同じで、ゴボウの初期成育が極めて遅く小さいのだが、しばらくすると小さいまま茎葉ががっちりしてきて緑色が濃くなるのである。そして前回は収穫時にちゃんと大きくなってくれた。今年はまだこれからが勝負だが、きっとしっかり育ってくれるのではないかと期待している。

このたびは生育が悪くて心配し続けてきたわけだが、つまりは私がゴボウの生育に慣れていなかっただけじゃないか。ゴボウに言わせればこれが自然な生育なのであって、何を勝手に期待しているのか、ということではないかと思う。

しかし本音では「まあまあ安心」の程度にとどまる。そこはやっぱり経営があるから。しっかり飛び切りに美味いゴボウが育ったからといっても、それが全体的に細いとすれば、総額では大きな減収になるし、味が飛び切りになったから高くしますよ、という我がままはそう簡単には通用しない。これとて私がゴボウ経営に慣れてないだけということもできるわけで、育つゴボウに合わせた経営の工夫をしていく必要があるだろう。

もう1つ、78番圃場の砂地が強い部分の生育が明らかに悪いということがある。ここは欠株も多いし散々である。圃場の部分的だといってもそれなりの面積だから確実に大きな減収になる。まだ収穫までに5ヶ月も管理が続くが、生育が悪いところは管理の手間が増えるというダブルパンチが一番滅入ることである。

3/10 積雪の白神山地へ(6)

白神山地にはその後、前回書いたように半年後の8月に友人と3人で再訪したがが、それ以外にも、8年後の2000年の夏に車で訪ねてみた。八森駅から県境の「二ツ森」までの清秋林道も辿ってみたが、世界遺産に登録された後のことである、県境付近に小奇麗な建築物ができていたのを始め、ずいぶんと変わってしまっていた。

そしてこのたびこうやって思い出しながら書いているが、地図を取り出してみると記憶がかなり間違っていることに気づき、ここ数日のものをいくらか訂正しておいた。特にルートの勘違いは驚きで、あれから24年の年月が経ったということを強く思わせることになった。

またゴールである川原平の集落は、何かがおかしい。調べているとどうやら湖(津軽白神湖)に沈んでしまったようである。こんな湖あったっけ・・と思っていたが記憶はいくらか残っていたようだ。

そしてこんなサイトを見つけた。 https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1079404.html

自分がたどったルートを転記してみた。かなり細かいところまで正確に書いたつもりだ。ただゴールの位置は、バス停が湖に沈んでしまったようなので適当である。また日程も、3月の上旬だったということは確かだが、記録をどこかに仕舞い込んでしまっているので定かでない。テントを張った場所なども記録できるのかどうか。今はちょっと方法が分からない。

国内の山は300座以上登っている。当時こんなサイトが使えたらいろいろ楽しめただろう。もっともPCさえ普及していない時代だ。こんなアナログの時代のおかげで、逆にこんな山歩きをすることができたのかもしれない。

3/9 積雪の白神山地へ(5)

弘前でJRに乗り換え、次の駅の石川駅舎でその夜は駅泊した。何ともいえない安堵感。とその一方で、強い悔恨にさいなまれていた。無計画さや浅はかさを悔いたのではない。おかげで予期せぬ貴重な体験ができたことは事実だろうし、運が良かっただけとはいえ、それを乗り越えて得たものもあるはずだから。

悔いたのは「自分の経験の少なさ」であった。大学3年も終わろうとしているのに、この程度かと、死を意識するのも初めてかと。もっと自分の可能性を広げたいし、人生観を鍛えたい。あまりにも自分は何も知らないし、できない。

もちろんそれまでの人生だって、性分である、自分なりには精一杯の努力はしてきたつもりだ。今回の山行に関していえば、この細い身体でも40kgくらいなら苦にせず背負って歩けるほどにはなっていたし、地形図の等高線を見て実際の地形が手に取るようにイメージできる能力も会得していた。今回はおおむね視界がはっきりしていたので、常備しているコンパスを一度も取り出すことがなかった。危険とされる尾根下りをたやすく満喫できるのも、ルートファインディング上で必要な高度な技術を持っていたからでもある。また気象通報を聞いて天気図を描き、翌日の天気見込みを立てることもできていた。(山奥ではNHK第二放送しか受信できない。イタリア語講座とかの合間に1日3回「気圧」情報が流れるので、それを地図にプロットして等圧線を引き、自分で天気予報をする。)すべて努力の賜物ではある。

しかし、やっとこさ、このレベルかと。それは大学生活があと1年あまりで終わろうとしてることへの焦りでもあった。自分はあと1年で何ができるのだろうか、丸1日を要する東京までの鈍行列車の中でそんなことをずっと考えていた。

4月から大学生活に戻った。無理を言ってやる気を失った研究室の所属先を変えてもらった(そこも程なく追い出されるのだが)。叱られ続けていた造園のバイトの頻度を上げた。8月には白神山地を再訪。就活もせずにその後も山に通い続けた。卒業間際の3月には高校時代の先輩を誘って極北シベリアを3週間旅した。いわゆるバブル経済が突然はじけ、就活で悲鳴を上げている友人らを尻目に、読書と山歩きとバイトに没頭して迷うことがなかったのは、明らかに今回のこの白神山地単独行のせいであった。ある意味で私の人生の一つの転機となった出来事だといえる。

続く。

3/7 積雪の白神山地ヘ(4)

山での不思議体験は何度かあるが、それはこのときが初めてだったかもしれない。

雪の壁を何となく眺めていたら、「ここだよ。」とあるルートがささやくのである。もちろんこれは言い過ぎで、正確には、一見して明らかに登れそうには見えないのだが、なぜかどうしてもそこを辿ってみたいと思うルートがハッキリと見えたということである。

準備した細引きではどうせ長さが足りない。いきなり荷物を背負ったまま、一歩一歩雪を踏み固めて足場を確保しながら進む。これは急だ、絶対ずり落ちる、というところでも何故かずれない。何とかほぼ中間地点の1本の木までたどり着いた。

一休みの後、歩みを進める。不思議とずれない。あと少しだ、ここまで来て落ちたらもう立ち直れんぞ、お願いだ・・。あと1mというところで、これまで大事なところでコケてきた自分の人生に思いを馳せる。俺は生まれ変わるんだ・・。

ついに崖を登り切った。安堵感と憔悴でしばらく放心。時計は正午を指していた。そして冷静になるにしたがって、だんだん漠然とした恐怖が襲ってきた。「死と隣り合わせなんだ。」死を意識したある意味で初めての経験だったであろう。

稜線を目指して登り始めた。この頃からボタ雪が猛烈に降り始め、風もなく、降りしきる雪の音さえ聞こえない静寂に包まれた。一歩一歩の歩みが深く潜るようになってきて、腰までのラッセルを強いられる。気力に加え、途中で体力も使い果たしそうになった頃、稜線に出た。締まって歩きやすい稜線を少しでも距離を稼ごうと歩きに歩き、この日の行程を終えた。寝るまでの間に降雪でテントが持たず、何度も雪かきを強いられる。雪は次第に止み、その夜は自分の浅はかな計画と行為を悔い、一刻も早く下山したいという思いを抱いて床についた。

翌朝は入山以来一番の天気。快適な尾根歩きを続行。しかし最後のオチが付いた。雪庇の亀裂を踏み抜いてしまったのだ。幸い、胸のところで止まってくれたが、足は微妙に宙に浮いている。ちょっとした恐怖。気を付けていたのにこの始末。荷物が重く這い上がるのに一苦労。

主稜の尾根を別れ、八方ヶ岳を経由する尾根下り始めてからは、雪庇の心配も少なく、雪も締まり、一気に湖畔の川原平集落まで駆け下りた。

集落で4日ぶりに男の人を見かけた時は何ともホッとした。私を見つけて不振がられているので挨拶をすると、どこから来たのかと聞く。秋田側の八森駅から歩いてきたと言ったら、積雪期に白神を横断した初めての人だ、と言って(もちろんそんなわけはない)ビックリされていた。集落にあった温泉に入りたかったが、バスの最終時間がギリギリ。いろんな思いを抱き合わせて、弘前行のバスへ乗り込んだ。

続く。

3/6 積雪の白神山地へ(3)

出発地点から赤石川本流はほどなくであったが、それを目の前にして崖に出くわしてしまった。見る限りではこの付近の赤石川河畔の特徴的な地形ではないかと思われ、崖は両側のどこまでも続いている。となると迂回路を探すのは骨が折れる。崖は上から見るとほぼ垂直で、「降りる」というより「落ちる」だ。まずザックだけを落とし、次に空身で雪の上をすべり落ちればいけそうではある。だが、もし赤石川が渡れなかったときに引き返せないし、木々でよく見えないが、対岸が同じ様な地形なら先にも進めず進退窮まる可能性がある。しかしここまで来たら運試しだ、と腹をくくって飛び降りた。

次に赤石川本流の岸に立って途方にくれた。川自体は予想通り小さな流れで明らかに歩いて渡れそうなのだが、3メートルくらいの積雪が雪庇になっていて川に下りるのが簡単ではない。また雪がまぶしくはっきり確認できないのだが、向こう岸に上がることができるのか。

もう後には戻れないと、雪庇を足で大まかに崩し、意を決して滑り落ちるように浅瀬に飛び降りた。そこから靴を脱いで裸足で川を渡り、対岸へ。案の定、雪が同様の状態で簡単には登れない。こうなったら雪を崩して這い上がるしかないということで、靴を履き、両手にアイゼンを持ち、そのツメで雪を削ることに。かなりの時間をかけて何とか這い上がることができた。

しかしここで驚愕の事実で腰が抜けた。なんとそこは中州ではないか!まぶしい雪のせいで、そこが対岸と地続きにしか見えなかったのだ。気を取り直して同様の工程にかかる。対岸に這い上がったときにはすっかり疲労困ぱいであった。

そしてそこから稜線に登るルートを探る。するとこちらの岸もすっかり崖に囲まれていることが判明した。少しでも登れそうなところを探したいところだが、川岸はたやすく歩ける状態ではなく、川の中を歩こうにもこの時期は水が冷たく無理だ。この付近をよじ登るしかない。試しにルートを作るべく空荷で足場を固めながら登ってみたが、雪を踏み抜いて下までずり落ちてしまい、それは何度試しても同じことだった。

「これはまずいぞ・・」臍下丹田というが、このときばかりは私の丹田は頭の上に上っていたことだろう。落ち着け、落ち着け、食糧もまだ1週間分はある、きっと方法はあるはずだ、などと言い聞かせながら時間ばかりが過ぎた。

続く。

3/3 積雪の白神山地へ(2)

当初は、「二ツ森」を越え、しばらく県境沿いの稜線を東進してから北進、「八方ヶ岳」経由で川原平集落を目指すつもりだった。しかし稜線からの眺めで気分が変わった。そこから「摩須賀岳」へ派生する北方向の広い尾根をどうしても歩きたくなったのだ。しかしそのルートで川原平へ抜けるには途中で赤石川を越えなければならない。

白神山地は夏歩けば強烈な笹薮だが、積雪が2~3メートルあるこの時期は、雪の中にところどころ木が生えているというような状態で、目先の歩みを自由に刻むことができる。稜線は雪が締まっているし比較的平らなので、雪庇にさえ気をつければ稜線をルートにし続けるのが無難なのだが、渡渉地点は赤石川の上流部で小さな流れだろうから何とかなるんじゃないか、もし渡れなかったら最悪でも引き返せばいいや、と考えてそちらへ進むことにした。

そしてそこからの広尾根歩きは至福の時間。雪庇を踏み抜く心配もないし、天気もまずまず。雪の上には様々な動物の足跡が多い。また意外とあちこちに真っ赤な血しぶきが点在している。獣や鳥が闘った跡なのだろう。そんなものをほのぼのと眺めながら、自由にルートが取れる広尾根下りはあまりに心地よく、憧れの白神山地の懐に分け入っているという気持ちも相まって、満ち足りた気分でその日は赤石川支流付近まで降り、テントを張った。

強烈な寒さで3日目の朝を迎えた。懸念していた赤石川越えの日だが、はたして、大変難儀な思いをすることになる。

続く。

3/2 積雪の白神山地へ(1)

3月だ。今ではデスクワークや地域の様々な会議が増える面倒な時期に成り下がっているが、人生を振り返ってみると、3月とは「開始」や「挑戦」の時期であったかもしれない。

18歳の初の自転車旅行(広島~山口5泊6日)を皮切りとして、自分の中で「初の」となる体験のほとんどが3月に集中している。農業の門をたたいたのは3月、今の農業を開始したのも3月である。

思い出を1つ。22歳の3月に、世界遺産になる前の白神山地を単独横断した。私にとって積雪期の本格的な単独行は初めてだった。40キロを越える荷物を背負い、秋田県側のJR五能線の八森駅(地図左下)から入山し、青森県側の西目屋村の川原平集落(地図右上の湖)まで、3泊4日で白神山地の核心部を横断したのである。

前日に東京を発ち、八森駅で寝袋で駅泊。自然破壊としてある時期注目された青秋林道を初日はひたすら歩いた。林道を歩くといえば楽そうだが、積雪で道路は封鎖されており、途中からは輪かんじきを履かなくては歩けないほどの積雪だ。県境の稜線付近までの20キロの道のりでかなり滅入ってしまった。

単独行はこれまでにも何度も経験があったが、積雪期独特の寂しい雰囲気が大きかったのだろう、その夜のテントの中で不安が大きくなって、とりあえず引き返すことに決めた。多めに準備した2週間分の食糧を飲むわ食うわで1人宴会を開始。荷物が軽くなれば楽になるというノリ。これまで準備してきて、わざわざ鈍行を乗りついでここまで来て、無念さがなかったわけではない。しかし気持ちが楽になったことの方が大きく、安堵の中でその夜は過ぎた。

翌朝、県境の稜線からせめて白神山地の広がりを眺めてから撤退しようと出発。ほどなく稜線へ到着。そしてそこからの景色が私に動揺をもたらした。雪に覆われ、起伏と谷に刻まれた何の変哲もない白黒の大地がどこまでも広がっているのだが、ただただこの中に分け入りたい、そういう衝動に耐えられなくなった。再度予定を変更して、前へ進むことにしたのである。

続く。

3/1 後始末の排水工事

朝からボランティア。1年前にやった田津地区の農道舗装のせいで、ある人の畑に水が流れ込むようになってしまった。その人が事業主体の制度の責任者である私に、「舗装をやり直せ」とか何とか言うので、「そんなわけにはいかない。私が骨を折るから排水できるように細工をしよう。」となだめて矛を収めてもらったわけ。

せっかく田畑が乾いて、明日がまた雨、というタイミング時に、こんなことで時間が取られるのは惜しいが、昔取った杵柄、やりだすとこれが面白い。プチ土木工事の魅力である。

他人の畑に断りを入れて、そこにうちの作溝機で深さ40センチの溝を掘り、農道はバックホウで掘り返し、パイプを埋めて排水をするという作業。ご本人がじっくり考えて自分がいいようにやりたい、とのことで私はとりあえず解放されたが、また埋戻しを私がやることになっている。

水の流れをコントロールするというのは遊びとしても最も楽しいものである。これが男女差があって、男はいくつになっても大体こういうのが楽しい。これは昨日やったうちの畑の工事。 畑を他社に譲ることにしたので、排水道の付け替えだ。田津の農地の水はけがいいのは間違いないが、ボーっとしていてはダメなところも多い。排水オタクの私にとっては雑作のないこと。

こういうのをやった後は、雨が待ち遠しい(明日は降らない方が嬉しいが)。水が思惑通り流れるのを見るのは楽しいものである。

*

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